メインコンテンツへスキップ
「はだかの王様」であること

「はだかの王様」であること

·
雑文
近藤 憲児
著者
近藤 憲児
目次

『はだかの王様』
#

アンデルセンのよく知られた童話の一つに『はだかの王様』がある。

あらすじはこうだ:


うぬぼれの強い王様の前に、バカには見えない服を作るという仕立て屋が現れる。この仕立て屋の正体は詐欺師だ。

王様は詐欺師にそのバカには見えない服を “作らせて” 、大臣に見せる。大臣は自分がバカだと思われることを恐れて、服が見えている振りをする。

そして王様もまた、同じように振る舞ってしまう。王様もまた、自分がバカだと思われるのを恐れている。

王さまは自分がバカかもしれないと思うと、だんだんこわくなってきました。また、王さまにふさわしくないかと考えると、おそろしくもなってきました。王さまのいちばんおそれていたことでした。王さまが王さまでなくなるなんて、たえられなかったのです。

役人も含め、王様の周りの人々はみんな同じように振る舞う。その間にも、詐欺師は服を作るのに必要であると偽って、王様から金品を巻き上げていく。

周りが持ち上げて、とうとう王様はその透明な服を “着て”、民衆の前でパレードをすることになる。

裸でパレードをする王様を見た民衆もまた、自分がバカだと思われるのを恐れて、王様の服が見えている振りをする。

そうして最後。パレードの中で、純朴な子供が王様の服が見えないことを指摘する。

「でも、王さま、はだかだよ。」

すると民衆の間に徐々にその言葉が伝わり、終いには皆が王様が裸であることを責め立てる。

「王さまははだかだぞ!」ついに一人残らず、こうさけぶようになってしまいました。

王様も自分が裸であることを認めるが、いまさらパレードをやめることはできないと、そのままパレードを続ける。


どいつもこいつも、どうしようもない。

プライドが邪魔をして服が見えないことを認められない王様、それを指摘できない大臣と役人、そして民衆。民衆についてはさらに始末の悪いことに、王様が裸であることを認めても良い雰囲気を悟ると、途端に王様を責め立てる。

ここに出てくる大人の中では、むしろ詐欺師が一番マシに見える。詐欺師だけがこの状況を嘲り、利用し、お金をだまし取るという悪事を成功させている。現実に対して誠実に向き合っているのは、皮肉なことに、詐欺師だけだ。

それにしても、この話は寓話としての機能をよく果たしている。この話の英語訳が 1837 年のようだから、少なくともそれよりも前に作られたものであるけれども、ここに現れるモチーフは現代でも観察することができる。

バカに思われるのが嫌で指摘できない、という構造は、今でもありふれている。しかも大人から子供まで、すべての世代で観察できる。王様が裸だと指摘しても良い雰囲気になった途端に民衆が王様を責め立てるのは、そのままネットの炎上に通じる。裸の王様をいつまでも指摘できず、それが王様を裸でパレードさせる、そしてそれを止められない、という破滅的な結果につながる様子は、スタンフォードの監獄実験、ミルグラムの服従実験、あさま山荘事件、最近ではビッグモーターの不祥事など、現代の諸処の出来事にマッピングできる。

偶然にも最近観た映画『ドント・ルック・アップ』にも似ている。エベレスト級の彗星が地球に衝突することがわかった天文学者と学生の二人が、大統領や世間に必死に訴えるも、様々な理由でまともに取り扱われない。大統領はスキャンダルで忙しいし、テレビ局は優しい顔をすることが目的になっている。資本家は彗星からレアメタルを取得しようと、彗星破壊計画をキャンセルする。誰もが人類滅亡の危機にあることに正面から向き合っていない。そうして皆で破滅へと向かう。

すなわち現代にもどうしようもないやつはありふれている。そして僕もまた現代を生きている一人であるから、大数の法則に従うならば、このどうしようもないやつらの中に僕も含まれよう。僕は当事者である。

この話の “教訓” は「周りにイエスマンを置かない」「真実から目を背けない」「プライドを捨てる」といったものだろう。僕も最初はそういう結論となる話を書こうして、そのネタとしてこの話を読み直した。

しかしながら、文章を書き進めると違う結論にたどり着いた。

はだかの王様であり続ける、という選択。

これについて書く。

王様が孤立するメカニズム
#

この話には、以下の二種類の役割を見出だせる:

  • 批判者 … 大臣、役人、民衆、子供
  • 被批判者 … 王様

王様が裸でパレードをするというカタストロフを避ける手段はいくつもあれど、大臣たちが王様に裸であるという真実を伝えること、すなわち「批判者が被批判者に指摘する」ということは、その一つに数えられるであろう。

しかし、大臣は王様に指摘できなかった。なぜか。それは「バカだと思われるのを恐れていた」から。

話を敷衍させて、一般に批判者が被批判者に指摘できない理由を考えてみると、以下のようなことを思いつく:

  • バカだと思われるのを恐れる、自分の評判を損なうことを恐れる。例えば、長く話を聞いたあとで話の序盤にある誤りを指摘するときに感じる不安。
  • 言う徒労感を恐れる、相手が聞いてくれないことを恐れる。例えば、指摘をしても相手の自説に絡め取られて、結果的にわかった振りをされるとき。
  • 対立することを恐れる、相手との関係を悪化させることを恐れる。例えば、友人に対する指摘。
  • 報復を恐れる。例えば、指摘した事実に対して相手が怒りを向けて、逆に “論破” しようとしてくるとき。
  • コミュニティから孤立することを恐れる。例えば、そのコミュニティの価値観に反することを指摘するとき。

これらの理由は大抵の場合、被批判者が寛容であればあるほど、幾分かその理由を軽減できる。被批判者は批判者に対して、常にリスペクトを持ち、耳の痛い意見を聞き入れる姿勢を示せば、批判者は恐れを抱かずに済む。

ここで被批判者の立場に立てば、しかしながら、そのような態度を批判者に対して行うことは容易ではない。率直に、無理だ。

批判されることから、いつも不快さを拭い去ることはできない。「いや、批判の中には、受けて気持ちの良いものもある」と思うかもしれない。そのようなケースは確かにある。しかしそれは、その批判の内容が、自分が作り上げて来た世界観とそもそもマッチしている場合に限る。そのような批判は結局、自分が作り上げてきた世界観を補強する作用をもたらすに過ぎない。その世界観をのものを打ち壊すような批判こそ、批判として大きな価値がある。そしてそのような批判は、不快である。

さらに、以下に示すように、批判者が常に “良き批判者” であるとは限らない。この不快さを耐えて、それでも批判を受け入れることは、相当な体力を使う。

  • 批判が的外れ。例えば、 Amazon の書籍のレビューに「梱包が悪くて星 1 つ」という評価をするもの。
  • 批判する文脈を理解していない。例えば、長いコンテキストが背後にある対象に対して、それを無視する、あるいは断片的にしか理解せずに一般論を述べるもの。
  • 批判するには能力が不足しているもの。例えば、年功序列の組織において、スキル不足にもかかわらず上司という立場にあるだけで「コーチング」をしかけてくるもの。
  • 批判するための知識が不足している。例えば、場当たり的な知識で思いついた “素人特有の意表をついた本質的なアイディア” を、専門家の間で十分に語り尽くされた議論を無視してぶつけてくるもの。

では、被批判者が不快な思いをしないように、 “良き批判者” からのみ批判を受け入れるようにすれば、どうだろうか。

これはうまくいかない。そもそも “良き批判者” が存在することが極めて少ない。いつもあなたを、あるいはあなたが関心のある領域を十分に勉強していて、理解している人など、本当に存在しようか。

では “良き批判者” を育てるのはどうか。受けた指摘に対して、指摘の仕方そのものを指摘していく。

これもうまくいかない。なぜなら、これはまさに上に述べた、批判者がなぜ指摘できないかの項目に書いた振る舞いそのものであるから。批判者は指摘をする度に「文脈理解が適切でない」「指摘する能力に欠けている」といった逆の指摘を受ける。この振る舞いを受けた批判者はもちろんのこと、それを見た潜在的な批判者もまた、あなたに指摘しなくなる。

こうして、王様は孤立していく。

不快さの受容
#

さっきから “良き批判者” とダブルクオーテーションで囲っているのも理由がある。というのも、 “良き批判者” は良き批判者ではない。

例えばサービスの売上がないときに「売上がないぞ」と批判する人に対して、「いや、それは戦略的には間違っていないから、今売上が立っていないことは許容しているんだ。こういう文脈を捉えずいい加減なこと言うな」と言いたくなることもあろう。しかしながら、本当の問題は実はその文脈そのものにあって、批判者がその文脈が誤っていると指摘しているのならば、この批判者のことを良き批判者と形容したくなるだろう。ここで文脈に従って、被批判者が不愉快にならない穏当な指摘をするのは、やはり良い指摘とは言えまい。

繰り返しであるが、指摘を受け入れることから不快さをいつも取り除けるわけではない。上に述べた例のように、自分が信じてきた、あるいは守ってきたものを壊すことを迫る、不快な指摘がある。その指摘の中には、あなたが目指すものに対して受け入れるべきものも含まれる。不快な指摘を排除するというのは、このようなチャンスを取りこぼすことになる。

かのように、指摘とは原理的に不快なものである。

ここまできてそもそもの話、そこまで不快な思いをして、指摘を受け入れる必要はあるのか。

ある。あなたがプロダクト開発をしているならば、ユーザーに受け入れてもらうことがミッションなのだから、ときにユーザーの不快なフィードバックを受け入れる必要もあろう。あなたが組織開発をしているならば、良い組織に導くことがミッションなのだから、ときに思慮の浅い従業員の不快な指摘に向き合う必要もあろう。

個人的にもある。僕の場合、例えば会社の同僚や後輩を見て、この人は今の考え方を抜本的に変えないと、この先同じことを続けていくだろう、と思うことがある。そういうことは、もちろん本人は気づいていない。気づいていないからこそ、指摘せねばならない。そ自分が井の中にいることを、自分自身で気づくのは難しい。そして、およそそのような指摘は、本人の世界観を壊すものであるから、不快である。

相対的に考えれば、僕もまた井の中にいるはずだ。僕は井の中にいたくない。故に、不快な指摘を受けなければならない。

処方箋
#

孤立した王様にならないよう、このような不快な指摘を受け入れる方法を考える。

不快さに耐えよ
#

不快さは避けられない。故に、指摘を受ける不快さに耐えよ。腹を括れ。

最初にこのように覚悟を決めるだけで、ものごとを始められる。

これを前提とした上で、不快さを完全に取り除くのではなく軽減する方向で考える。

ゴールを共有せよ
#

不快な指摘を受け入れやすい状態というのも、たしかにある。それは例えば、自身で作り上げたいものを純粋にもっと良いものにしたいと思ったとき。自分では気づけ無いダメさというのを、誰かに指摘してもらいたい、と思うことがある。

達成したいゴールに対して、自分だけでは気づけ無い指摘が必要だと認識している場合、不快な指摘を受け入れやすい、ということが経験的にある。

批判者もまた、達成したいゴールに対して必要だという前提がある場合、本質的な指摘をしやすいことも、経験的に理解する。

ゴールを共有せよ。批判の対象をヒトではなく共通のコトに向かわせよ。

ここで忘れてはならない。「互いに不快な思いをせず本質的な指摘を行えるポジティブな空間」が存在するという幻想を捨てよ。

ゴールを共有したからと言って、いつもそんなに簡単にヒトとコトを切り離せるわけではない。ゴールを共有しているからといって、話している最中にそれを忘れてしまうことも当たり前に生じうるし、言い方が辛辣ならば腹も立つ。

そんな理想的な空間は無いと認識するからこそ、批判者は慎重に指摘できる。不快さをなるべく軽減させようと、慎重な言葉遣いを心がける。その指摘が妥当であるかも自分で検討したくなる。被批判者は不快さというノイズに耐える覚悟ができる。

「心理的安全性」とか「ポジティブ/ネガティブフィードバック」だとか、そういう言葉を安易に使わない。ここまでに話をしたような人間のどうしようもなさみたいなものが漂白された言葉に、有意義さを見出せるか。そうではない。

無視せよ
#

指摘される機会を増やすことが、戦略的には良いだろうが、その分、質の悪い指摘を受ける機会も増える。

受けた指摘が質の悪い指摘か、あるいは本質的な指摘かを自分で判断することは、これまでに述べた理由から難しい。

そのため、本質的な指摘を取り逃さない方法はすべての指摘一つ一つに向き合うことだが、これは実質無理。発狂してしまう。

無視せよ。そこで取りこぼす指摘は仕方ない。

この話を書いていると、元首相の小泉純一郎を思い出す。

小泉さんは記者からの質問ににこやかに頷いて返事をすることで有名だったらしい。そのため記者もなんでも尋ねたくなるらしいが、面白いことに、頷くこと以上の返事がない。本当にただにこやかに頷いて、その場を凌いでいるだけ。

このような豪胆さも、ときには必要になるだろう。

よく寝て、よく食べよ
#

くだらないが、本質的だ。

産後鬱になる確率は 10 % だとどこかで聞いたけれども、それが本当かに関わらず、鬱になってしまうメカニズムはわからんじゃない。育児のすべてに真面目に向き合うならば、寝不足になる。寝不足になると、子供の泣き声に過剰に苛立ってしまう。鬱の要因は知らないけど、僕は寝不足をどうにか改善する手段はないかと言いたい。

烈火の如く怒りの感情で満たされていたものが、少し寝たりご飯を食べたりしたら途端に冷静になる経験をしたことがあるだろう。

不快さを受け入れることは体力を使う。ベストなコンディションでないときに、わざわざ不快さを受け入れなくてもよい。よく寝て、よく食べよ。準備ができたら、受けて立とう。

孤立せよ
#

ここから、上と矛盾したことを述べる。

最後の処方箋。処方箋というよりも、死を受け入れることによる癒やし、に近い。

あえて、孤立を選ぼう。

そもそも、批判者の指摘が正しいとは限らない。むしろ、その指摘を受け入れることが悪い結果をもたらすことすらある。

イーロン・マスクが他人の不快な指摘を受け入れていたら、ロケットを宇宙に飛ばすことはできただろうか。 Airbnb の創業者らは、 VC の不快なもっともな指摘を従順に受け入れていたら今の Airbnb を作ることはできただろうか。ジョブズが他人の不快な指摘を受け入れていたら、iPhone は生まれただろうか。

世間の常識が間違っている、自分以外のみんなが間違っている、と、僕もそのような考えに至ることはままある。

漫画『デスノート』に出てくるニアの言葉を思い出す。

もし神がいて、神の教示があったとしても私は一考し、それが正しいか正しくないかは自分で決めます

神の教示すらも、無視せよ。

もしも孤立を選ぶならば、覚悟せよ。あるときは指摘をもらって受け入れて、あるときは指摘を無視するといった、どっちも取るなんていう虫の良い話はない。

これは賭けである。あなたが成功して、あなたの考え方が正しいと知らしめることができたならば、あなたの勝ち。そこで負けて、あなたの周りから人がいなくなっても、文句は言うまい。

ときに、そんな状況でもあなたを指摘し続ける人がいるかもしれない。いつまでも離れずに、あなたに指摘し続けてくれる人がいるかもしれない。

その批判者が、指摘する合理的な理由が無いにも関わらず指摘し続けるとすれば、それはもう愛情だろう。

そういう人がいるならば、あなたは幸運だ。せめてその人だけでも、大事にしよう。

僕はどうするか
#

僕はイーロン・マスクのように、孤立した王になることはできない。孤立に耐えられない。自分自身で考え方が変わっていくことを観察しているため、今の自分の世界観が完成しきったと思うことは、もはやできなくなっている。

一方、批判者の指摘に従順になることもできない。それができないくらいに十分に自分の考え方を信じている。そういうもんだ。割り切ろう。

そのため、僕は両方を取ろう。虫の良い選択をする。

この主張が上の節で述べたことと矛盾することは理解している。

というメタ認知を持っている。そんな僕ならば、その中道を見出だせるかもしれない。

という、孤立した王であろう。

最後に、良き批判者へ
#

相手が不快な思いをする覚悟を持って指摘しよう。慎重な言葉遣いを心がけよう。相手が不快な思いをすることを恐れずに、本質的な指摘をしよう。

受け入れられないことも、当然ある。あなたの指摘が間違っている可能性もある。相手が孤立の王ならば、無力感も感じるだろう。

それに耐えきれないならば、静かに遠ざかろう。相手が受け入れないことを、あなたも受け入れる必要はない。

そこに遠ざかりたくなるほどの耐えられなさを感じるのならば、あなたもまた孤立の王であるのかもしれないね。

参考
#

Related

「平均継続期間=1/解約率」から指数分布へ
数学 確率
GitHub Pages + Hugo でブログを開設する
Hugo GitHub 技術
お問い合わせ