深夜ならではであるが、過去の自分の記事を読みふけっていた。
2 年前、『「はだかの王様」であること』という記事を書いた。2 年とは短い。しかしこの間に多くのことを見聞きしてきた。
そしてあることに気がついた。
アンデルセンの寓話において、王様は「うぬぼれの強い」人物として描かれる。バカには見えない服を着て裸でパレードをする、どうしようもない王様だ。
しかし、そもそもなぜこんなにも “バカな” 王様に、多くの人が従っているのか。
寓話だからそこは問わない。しかし現実にも同じ構造が観察される。なぜこんな人に、これほどの求心力があるのか。
その人から見える世界、他人とはしばしば異なる構造で切り取られた世界の見え方を、その人の持つ「世界観」と呼ぼう。
裸の王様は、世界観を持っている。そして、その世界観というフィルターを通して世界を見たときに、そこに歪みを見つける。その歪みにひどく苛つき、そしてそれを正そうとする意欲がある。
こうした世界観を持つ人は、たいてい利己的で、それでいて、なんとも魅力的に映る。イーロン・マスク然り。スティーブ・ジョブズ然り。彼らの周りには、その世界観に惹かれた人々が集まり、力を持ち、そして物事を動かしていく。
困ったことに、その世界観が現実に対して合理的であるかどうかは、吸引力とは関係がない。
合理であろうと不合理であろうと、人は吸引される。オウム真理教には高学歴の信者が多くいた。ジョン・ウェイン・ゲイシーにすらファンがいた。不道徳であっても、世界観の吸引力は衰えない。
せめて、合理的な世界観ほど人を惹きつけ、不合理な世界観からは人が離れる、そんな物理法則が存在する世界であればよかったのに、悲しいかな世界はそうなっていない。
ある人の世界観に惹かれて付いていった人は、その人から一見して矛盾したメッセージを受け取ったとき、こう考える。矛盾して見えるのは、自分がこの人の世界観をちゃんと理解できていないからだ、と。
本当は素朴に矛盾しているだけかもしれない。しかし、世界観への信頼が、自身で勝手にその矛盾を解消させてしまう。
前の記事で、批判者が被批判者に指摘できない理由を列挙した。バカだと思われることへの恐れ、対立への恐れ、コミュニティからの孤立への恐れ。しかしここではもう一つ、より根本的なメカニズムが働いている。指摘する必要性を感じない、という状態だ。矛盾が矛盾に見えていないのだから、指摘のしようがない。
そして、何かのきっかけでその人に失望し、世界観を探求する意欲がなくなった途端、態度が反転する。ただの合理的な考えができない馬鹿野郎だと吐き捨て、批判側に回る。恨みすら抱く。
前の記事で書いた民衆の振る舞いそのものだ。裸だと指摘してもよい雰囲気を悟ると、途端に王様を責め立てる。あの振れ幅の大きさは、世界観への信頼が崩壊したときの反動として説明がつく。
王様にとって “詐欺師” とは誰か。自分の世界観をよく理解してくれる者だ。自分が見ている歪みを共有し、それを正す方向に動いてくれる者だ。そういう人間を、思わず重宝したくなる。
では “批判者” とは誰か。自分の世界観を壊す者だ。自分が独りで苛ついている、その苛立ちの根拠を否定してくる者だ。そういう人間を、遠ざけたくなる。
前の記事で僕は、王様が孤立するメカニズムを批判者の側から描いた。批判者が恐れを抱いて指摘できなくなり、王様が孤立していく構造を。
しかし、2 年経って気づいたのは、王様の側からも同じメカニズムが駆動しているということだ。王様は自ら詐欺師を招き入れ、批判者を遠ざける。孤立は、外からだけでなく内からも進行する。
2 年経って気付いたことというのは、僕自身が、はだかの王様になっている、ということ。
もし神がいて、神の教示があったとしても私は一考し、それが正しいか正しくないかは自分で決めます
僕はこのニアの言葉を引いて、孤立の王であろうと宣言した。そしてこうも書いた。
これは賭けである。あなたが成功して、あなたの考え方が正しいと知らしめることができたならば、あなたの勝ち。そこで負けて、あなたの周りから人がいなくなっても、文句は言うまい。
僕は今この賭けに乗り出している。あのとき想像で書いた孤立の王の覚悟を、今は実感として抱えている。
幸いにして、僕には “まだ” 良き批判者がいてくれる。
過去の自分からの箴言通り、せめてその人だけでも、大事にしよう。
